手を動かす人は無条件に偉い
手を動かさない人より手を動かす人のほうが偉い。
たとえもっと上手くやれる人がいたとしても、その能力を適切なタイミングで発揮しなければ能力がないのと一緒。
同様に、自分のほうが上手くやれると思っていても、あなたが実際にその能力を発揮しないのであれば能力は無いのと同じ。
あなたの能力が要求を満たすことはおそらく永遠に来ない
ピーターの法則によれば組織に属する人々は、無能を露呈するまで昇進し続ける。 つまり放っておけば自分の能力を越えた仕事が課せられるようになるということ。 これは能力の成長曲線とは関係なしに働く力学と捉えられている。
ということは「○○ができないので××という仕事をやるには時期尚早だ」と思っていても、○○ができるようになるころには最早××は要求されずさらに難しい別の仕事が求められるようになる。
失敗するなら早めに
常に要求が能力を上回るのであれば失敗のリスクがある程度付いてまわる。 つまづいて、軌道修正して、またやり直して、の連続で成長していく。このサイクルをたくさん回せるほど目標達成に近付いていく。
悩んでいる時間はこのサイクルに含まれない。1ヶ月悩んでいたら、1ヶ月ぶん損することになる。
一般に時間が経つほど今より良い未来が期待されるので、悩んで時間を浪費すればするほど自分への期待値が高まって首を絞めることになる。
今年出るiPhoneより10年後のiPhoneのほうが期待が持てるでしょう。少なくとも10年前に戻れば次の年のiPhoneは格段に良くなっていると信じられたでしょう。
あなたの不安はどこから?
そもそも失敗すると起こる悪いこととはなんだろう? 周りからの失望? 人事評価が下がる? 会社の業績が悪化する?
とりわけ周りからの評価は、自分で制御できずかつインパクトがとても大きく見られがち。 実際にいま周りにいる人間から評価が下がる体験をしたことがなくともそう信じられがちで、自身の過去の経験や想像から補完されてそう捉えられることが多い。
この補完材料の中には 自身が他人に向けるであろう視線 も含まれていないだろうか? つまり 誰か失敗した人を見た時に自身はこう見るであろう という想像が厳しく冷たいものだから、それが自分に返ってくることを恐れている。
将来、自分が失敗した時に周りがどう評価するかは本質的に予測が難しいし制御できないが、自身の想像が無尽蔵に悪い方向に膨らんでいくことは、自身の認識をアップデートすることである程度修正が望める。
自己効力感でしか癒されない
「自分にはできない」という無能感には「確かに自分でもやれる」という自己効力感でしか抗えない。
自己効力感は直接的な成果が挙げられないと得難い。だから言葉尻の応援が無意味とは言わないが、それが自己効力感に繋って良い結果を引き寄せるという期待を持つのは無謀と言わざるをえない。 てるてる坊主を作ることを否定はしないが、それが戦略かと問われたらNoというほかない。
だから周りは成功に近付くために本当に効果的な助言や手伝いをしないといけない。
やることが多くてパンクして困っているという人に「応援しています!」という声かけはおよそ意味をなさない。
周りをサポートするところから
難しい仕事や責任の重い仕事に挑戦している人より周りのほうがリラックスしていて視野を広く持てるということはよくある話。
そういうリラックスした立場でいる時に「自分だったらどうする?」を考えて直接的にスキルを高める努力をしてもいいし、携わっている人の様子を見てどんな困りごとに直面しているかを把握して、どんなサポートをすればいいかを考えてもいい。
たとえば他チームの振り返り議事録を見て、KPTでやっていたら挙げられていたProblemについて自分だったらどんな洞察を得るだろうか? と考えるのはすぐにできる素振り行為ではないでしょうか。
エンジニアであれば他チームのPull Requestを見て、自分だったらこう設計する・レビューでこういう観点を持つといったことを考えてもいい。
むすび
社内のesaに書いていたエッセイを加筆修正してここに記します。
自分は今まで仕事でいろいろな決断を迫られたり実際にこなしてきたけれど、うまくいったと評価できるものは例外なく背中を預けるに足る存在が周りにいたからで、何か想像を超えたすごい能力でなんとかしてきたわけではないよ、ということを共有するために書きました。